Journey of Nobel Prize for Medicine

ノーベル生理医学賞のすべてを少しずつ追う旅

5.1 Claude Bernard 実験医学序説 (1865)

[5. 古典書籍について  いくつかの医学や研究論における古典を紹介する。

多くの人間は古典から学ぶという観点が欠けており、人類が貯蓄してきた英知のうまみを全て享受できているかどうか、大いに疑問である。科学の最大の利点とは、文学とは異なり、知識や技術を全人類的に貯蔵できるので、年数を経るごとに確実に学問が進化する点である。そのため、ある分野についての認識が18世紀に居たある科学者よりも劣っているという、本来的にはあやまった科学者としての姿に堕すことは在ってはならない。

本項では、正しい科学者となるべく、過去の著名作についての分析および考察を目標として各論を展開する。]

5.1 Claude Bernard 実験医学序説 (1865)

「生物たると無生物たるとに論なく、自然現象の存在条件には絶対的のデテルミニスムが存在する」という文脈を持つ。これは、René Descartesが著書『方法序説』の中で指摘していた思考方法のなかで、生気論と呼ばれるものを排除するという進化を遂げたことを意味する。生気論というものは、人間を含めた生物には物理や化学を超えた特別な法則性によって動いているという論であり、Claude Bernardに言わせれば「医学的迷信」であるものである。実際、Descartesの存命の時期は17cで、Bernardの存命の時期は19cである。Bernardは、生命とて科学法則のみで動いているのであって、生気論と呼ばれるような例外はないということを示したのであった。

それでは、医学はどのような方向性になるのかと言えば、無機界の現象の複雑度は有機界の現象の複雑度よりも「はるかに少ない」のであり、故に無生物を研究する学問がより早く構成された。その上で、有機界においても、細胞内や生体内の内部環境は、物理法則や化学法則によって動かされている外部環境とは異なるものの、連関して動いていると指摘する。外部環境とは、水、温度、空気、圧力、有機物質などの条件であると例証されている。そして、内部環境は複雑ではあるが、細かく単純化して実験を重ねることで、確定的もしくは厳密な法則性によって動いていることが理解できると説明している。つまり、神秘主義懐疑論に陥ることなく(懐疑論については実際にBernardが文中で用いている)、正確に実験していくべきであるし、そうすることが医学においても必要であると。

その具体的な内容として、内部環境において再現性を規定するための有機化学が挙げられている。筆者が考える注目すべき点は、この著作は1865年に出版されたものであり、遺伝情報がどのように細胞に保存されているのかという分子生物学の観点は無かったという点である。現代の普通の科学者においては、遺伝子の機能を明らかにするという単純作業ばかりにふけってしまっており、有機化学を探求する重要性を忘れている者が多い印象がある。Bernardがこの著作の中で明確に述べているが、物質の物理化学的性質を支配する法則は「生命発展の指導理念」であると述べている。「指導理念」とはデテルミニスムの言い換えと判断して差し支えないが、この指導理念自体を忘れているのではないかと思われる分子生物学者も少なくない。つまり、遺伝子が発現する物理化学的条件についての詳察が圧倒的に不足している。下線はBernardが述べているのではなく、私がBernardの言わんとしている内容を汲んで発展的に説明しているのである。なぜなら、一つ目に遺伝子という概念はBernardの生きていた時代にはない。二つ目に、Bernardは著作中にて「生命の発現に必要欠く事のできない物理化学的条件の他に、生物科学の真髄である固有の生理的発育的条件」(第二編二章の二。岩波文庫, 1976年第12刷発行で164頁)を考えなければならないことを指摘している。固有性をもつ生命の真髄とは、今なら分かるがゲノムのことである。一方で、その前説にあたる物理化学的条件の理解が、今圧倒的に不足しているのであろうが、それが生物学者のコミュニティーの中において厳密に認識されているのか、大いに疑問が残る状態であろうと私は考えている。

さて、続いて生命物質の法則を知る為には「生体解剖を行わなければならない」と指摘しているのも、本書の重要な点である。タイトルである『実験医学序説』の存在の根幹にある理屈である。ここで、「傷害実験」と「治療的実験」の違いを知っておくだけで、本書の本筋は理解できたと言ってよい。本書には簡単な歴史的経緯が紹介されており、紀元前には、囚人に阿片を飲ませて効果を調べるとか、ガレンが猿や豚に傷害実験を行ったなどと書かれている。今でも、遺伝子を破壊してその遺伝子の機能を調べることは日常茶飯事であるので、この紀元前にあった傷害実験といわれるものは、医学においてはずっと続いているものであると言えよう。Bernardによる定義は「傷害実験とは、身体の一部分を傷つけたり破壊したりあるいは切除したりして、その結果起こって来る障害からその部分の作用を判断しようという」ものである。

治療的実験は、その人にとっては害のみになるような実験を決して人間において実行しないという原則の上で、患者の利益になるようにと治療をする中で実験をすることは差し支えないというものである。外科医がだんだん手術の成功率が上がることが例になる。「害のみを生ずるようなものは禁ずべく、無害のものは許さるべく、有益なものは奨励さるべき」という理屈である。

この原則については、一点だけ現代と異なる点を理解する必要があろう。この観点では死後の人間にとっては害という概念がなくなるというもので、たとえば「死刑囚の婦人に、ひそかに腸寄生虫の幼虫を嚥下させた」り、斬首直後の罪人の生体組織の研究をすることを「完全に許される事でもあると思う」とBernardは言っている。現代であれば、どちらも事前に本人の承諾書が必要であるし、寄生虫を嚥下することはたぶん誰もしないし、つまりはBernardの論には自己決定権の発想がない。これは時代柄もあるだろう。自己決定権以前に、19c中頃は功利主義が流行った時代である。

結論としては、生体解剖を行って生理学もしくは病理学をふかめなければ成らないという主張をしている。生理学と病理学は、背反する二つの要素であり、共に生体内に宿っているものである。これも重要な点であろう。正常な生体を解剖することでは「生理学」に新しい一ページがきざまれ、病んだ生体(もしくは病んで死後の生体)を解剖することでは「病理学」に一ページがきざまれるという明晰な帰結である。そしてまた、実験生理学(もし言い換えるのであれば実験病理学)は解剖学、動物学、物理学、化学といったあらゆる科学を参照しながら進むため、「真に活発な生命科学というべきもの」だとすら述べている。ここも非常に重要な主張なので、覚えておくべきである。

さて、おまけとしてle determinisme(デテルミニスム)の哲学的な側面ついて述べる。おまけというのは、本来Bernardは実験医学は哲学とは分離して考えるべきと考えていて、「科学において最大の発見をなしたものは、ベーコンをもっとも知らなかった人たちである」(ジョゼフ・ド・メートル)の言葉を引用している程である。科学的な方法は実験室の中でのみ習得されるということである。

le determinismeはフランス人には馴染みの深い言葉であるらしく、決定に対する個人的影響を否定して全面的なモチーフの因果律によって説明する哲学体系を指す。自由意志や偶然を排するという意味が深い。本書は生物現象デテルミニスム論であるというわけだ。医学界のDescardesと呼ぶ者もいる。(※)

ちなみにBernardは若いころは劇作家をめざしていて、ある劇作家に作品を持っていったところ才能がないといわれ、医者になった人物である。このような実験に対する理論書を執筆できたり、もしくは執筆しようという動機を持ちえたのは、彼が文筆の才がある程度あったか、もしくはそれに慣れ親しんでいたからかもしれない。これはあくまで推測である。

※  三浦 岱栄の発言による。岩波文庫, 1976年第12刷発行の解説にて。